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ミャンマーの生活 |
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1 ミャンマー概観
ミャンマーはタイ、ラオス、中国雲南省、インド、バングラデシュと境を接し、面積は日本の約1.8倍67.7万ku、人口は46,400千人(97年度推定)の農業国であります。ミャンマーは超多民族国家で、一説では、135民族が国内に居住していると言われています。その中でも主力なのがバマー族で、全体の7割近くの人口を占めています。
同国は、以前は社会主義国でしたが、現在は社会主義の憲法を破棄して資本主義の道を一歩一歩堅実に歩んでおります。このあたりが、ベトナムと違うところでしょう。現在ミャンマーには憲法がありません。日本国内でもファンの多いアウンサンスーチー女史と現政権は対峙しており、欧米のマスメディアに訴えるスーチー女史一派が反対するために対話が進まず、新しい憲法が制定できないのです。
ちなみにミャンマーでは姓がなく、古代日本や江戸時代の一般庶民のごとく名前があるのみです。アウンサンスーチー女史は、建国の英雄で神格化されたアウンサン将軍の娘で、その関連でアウンサンが苗字、スーチーが名前のように思っていらっしゃる日本人がほとんどですが、アウンサンスーチーで一つの名前です。アウンサンスーチーではやや長すぎるので、一般的にはスーチー女史と称されています。
ヤンゴンのスーレーパゴダ通り
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ミャンマーのGDPの産業構成比は、農業52.0%、水産6.1%、林業0.6%、製造業7.5%、小売1.99%、貿易23.5%などとなっています(97年度)。実質GDPは125億$、実質GDP/人は270$と推定されています。GDPの数字だけから考えますと、非常に貧乏な国になってしまいますが、統計に表れない部分が多く、世間で言われているような世界の最貧国では決してありません。自給自足、売上高の自主申告、帰順反乱分子の懐柔策などにより、捕捉し得ない部分が多いからです。
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2 ミャンマーのインフラ
ミャンマーは長い間社会主義国でありました。それもマルクス・レーニン主義によらない独自の社会主義を唱えていました。そのために、「バマー式社会主義」と言われていました。上座部仏教の思想と、日本の軍隊のシステムを倣ったところが多分にあったような感じがします。
日本では一時マルクス・レーニン主義が正義で、資本主義はそれに対立する概念と言う考えが、言論界で優勢を占めていました。そのためにか、北朝鮮、ベトナム、カンボジア、ラオスなどに好意的な人が、ミャンマーとなると軍政国家だという論理で敵対的な言動を示すことも多いようです。
社会主義の長い実験は終わりました。各国の社会主義は崩壊したのです。社会主義の理論はどうやら正しくなかったようです。ミャンマーも同様に、社会主義の制度は崩れ去ってしまいました。
社会主義時代の後遺症で、ミャンマーのインフラは見るべきところがありません。また、日本の経済援助が現在ストップしていますから、その整備は遅々としたものです。電力事情が芳しくありません。潅漑設備が進んでいません。道路、鉄道、港湾、空港などの輸送体系が全く遅れた状態になっています。日本の昭和28・9年か30年代初頭の感じを連想されると、その感じがよくつかめます。
日本でも、当時は停電はしばしばでしたし、国内の道路は舗装もされていない所が多かったように思います。日本国も貧しい国でした。昭和30年代に入って、ようやく貧乏から脱却し始めました。ミャンマーの現状は、当時の日本を見るようです。
往時の日本のように、数か月後に再度ミャンマーを訪れますと、街の景観などが見違えるような状況になっており、びっくりすることがしばしばです。
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3 ミャンマーの国民性
ミャンマーの国民性は、日本人とそっくりです。恥ずかしがりやで、余り自己主張を しない人が多いように感じられます。また、日本人と同じような笑い方もします。ミャンマー語の語順は日本語と同じで、てにをはのような助詞があります。遠い昔、チベッ ト高原を南下したのがミャンマー人、北に向かったのが韓国人や日本人と考えているミャンマー人が多いと言われています。
以前、ミャンマー第2の都市マンダレーの商工会議所の議員諸氏と会談したことがあ ります。日本側の代表団は何人も質問するのですが、ミャンマー側からは何等の質問も 返って来ませんでした。唯、会頭さんが役目柄喋るのみです。このように、自己主張が 少ないことは日本人の精神構造と極めてよく似ています。マンダレーはミャンマー最後 の王朝のあった所で、日本の京都のような位置を占めています。
また、全体的に日本人のように働き者が多いように見受けられましたが、中国人やインド人と比べると、商人としてのどん欲さにはやや欠ける面があるように思われま。その面、素直で、実直な人が多いとも言えます。ミャンマーの人と話していると疲れませんし、日本国内にいるよりもむしろゆったりとした気分になることができ、不思議 な感じさえします。日本人にとっては、阿吽の呼吸で相手の気持ちが分かり合える、数少ない国と言うことができます。
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4 首都ヤンゴン
ヤンゴンはミャンマーの首都で、現在の人口は450万人と言われています。街の中心部はイギリスによって都市計画され、碁盤目のように区割りされています。その中央にスーレーパゴダがあり、ランドマーク・タワーとなっています。スーレーパゴダは金箔で覆われ、夜間になるとライトアップされ、終日光り輝いています。同パゴダの西側がインド人街、さらにその西側が中国人街となっています。インド人街の北側には、有名なボージョー・アウンサン・マーケットがあります。ボージョーはミャンマー語で将軍を意味します。ボージョー・マーケットはミャンマー最大のマーケットです。
96年の12月に最初にヤンゴンを訪問しました。その時、中国人街を散策しミャンマー特産のシャンバッグを購入しました。店の人に安くしてくれるように交渉しましたが、応じてはくれませんでした。その時、たまたま米$しか持ち合わせがなく、再度現地通貨を持って行ったものですから、今度は店の方で気持ちだけ安くしてくれました。その時買った値段は170チャットです。日本円に直すと、当時のレートで140円程度でしょうか。シャンバッグは布製のショルダーバッグで、大抵の日本人はミャンマー訪問のお土産として買って帰ります。
また、その時同行した連れの診断士が、ボージョー・マーケットに程近い所にある眼鏡店でメガネを購入しました。店の名前はYE眼鏡店と言いますが、一式で20米$でした。当時のレートは1$100円程度でしたから、2千円と言うことになります。その診断士が記念の写真と言うことで、検眼してくれた女医さんと一緒に写真を写しました。その時、女医さんの肩に手を回したものだから、女史はびっくりとしてしまいました。後で知ったのですが、人前で女性の肩に手をやるなどはあり得ない行為だと言うことを知りました。
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5 ミャンマー最後の王朝のあったマンダレー
マンダレーには、すでに9回程訪れました。現在の人口は80万人と言われています。 首都ヤンゴンと比べると中国の雲南省に近く、中国の影響が色濃く表れています。
市の中心部には王城跡があります。王城内では王宮が再現され、当時の面影を示しています。王城は堀で巡らされており、京都御所の感じよりどちらかと言えば二条城に近い感じです。王宮は第二次世界大戦の時に、日本軍とイギリス軍との戦いで徹底的なダメージを受け、炎上してしまいました。ミャンマー政府は96年11月を観光年と定め、そのために王宮が急遽再建されたのです。
マンダレーはミャンマー最後の王朝のあった所で、そのために見どころは沢山ありますが、今回は観光案内ではないのでその記述は控えます。マンダレーの周辺には、興亡した幾多の王朝時代の名残があります。日本の近畿地方を連想されると、その雰囲気が感じられると思います。マンダレーに住む人はその他の地域に住む人たちと比べると、京都人のように何となくプライドの高さが感じられ興味を引きます。
首都ヤンゴンの市内は自動車で渋滞し、二輪車は余り走っていませんが、マンダレーではオートバイ、自転車がいっぱい走っています。自転車のほとんどは中国製ですし、驚くことは、メーン通りではなく横道の道路幅が40m位もあることです。その中央部は簡易舗装がなされていますが、その他の部分は未舗装のままです。経済力が向上して来れば、強力な武器になりそうです。
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マンダレー最大の市場ゼージョー・マーケット
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6 地方都市
ミャンマーでは、国内各地に人口数万人以上の都市がいくつも見られます。国土の多様性、各民族による幾多の王朝が興亡した歴史、イギリスの占領政策による拠点づくりなどによるものと考えられます。このあたりが、タイの極端なバンコク集中型と趣が違うところです。
仏教徒が大半であるバマー族、モン族、シャン族などの民族が中心の都市では、街中に金箔のパゴダが見られます。キリスト教徒が多いカチン州などでは教会の姿が多く見られ、特異な都市景観となっています。ミャンマーでは信仰の自由がないなどと言う人が、一部マスコミ人の中にさえ見られますが、全く見当違いです。かつてのマルクス・レーニン主義による、社会主義国を類推した考え方から来たものと思われます。
都市には、必ずのようにマーケット(ゼェー)があり、街の中心となっています。地方都市へ行きますと、少数民族の人たちが特産品を持って集まって来る様が見られ、ミャンマー観光や視察の楽しみの一つになります。
シャン州のラショー、ムセ、ナムカンなどは中国の影響が、マンダレー近郊にあるピン・ウー・ルーウィン(旧名メイミョウ、メイはイギリス人のメイ大佐、ミョウはミャンマー語で町を意味します)などはイギリス統治時代の雰囲気が、ザガイン管区の主要都市の一つモンユアなどではインド交易の影響の様が見られます。ミッチーナーやタウンジー(それぞれカチン州、シャン州の州都)などは日本の田舎都市の風情ですが、風 格が感じられます。シュエボーは、ミャンマー最後の王朝を興したアラウンパヤーが築城した、コンバウン王朝の最初の都ですが、鄙びた田舎都市となっています。
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7 ミャンマーの経済事情
ミャンマーは第二次大戦後イギリスから完全独立し、1962年から88年まで、26年間に亘って社会主義国でした。当時は、世界的に社会主義国がもてはやされた時代だってのですが、そのためにミャンマー経済は停滞してしまいました。
60年代初頭は、ミャンマー当時のバマーは東南アジア屈指の強国でした。国連の事務総長にウー・タン(ウーは男性の尊称)が就任するなど、近隣諸国と比べるとその国力は抜きん出ていたように思われます。当時のバンコクの日本駐在人は、ラングーン(現ヤンゴン)まで買い出しに出かけたものであるとの記事をよく目にします。
1988年に「バマー式社会主義」経済体制は崩壊し、市場経済化と対外開放が進行しています。そして民間投資を大幅に規制緩和した結果、各セクターでは民間部門の生産額が国有部門を上回るようになりました。
社会主義時代は農産物の取引が制限されていた結果、生産意欲に乏しい面がありました。また、タイ、中国など隣接国との間での国境貿易が公認されたため、貿易額も年々拡大しています。しかし、アジア経済危機の影響があり、98年度の経済の伸び率は頓挫しました。99年度は若干の伸びを示したとの情報があります。
ミャンマーは農業が最大の産業の国で、工業生産面では特に世界に誇れるモノは見当たりません。その代わり、地下資源には恵まれており、近年天然ガス田の開発が進んでいます。また、ミャンマーは宝石大国で、日本で取り引きされているルビーや翡翠、サファイアなどは、ミャンマー原産のもの圧倒的に多いと考えても間違いないでしょう。
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8 ミャンマーの商業事情
ミャンマーの「小売」のGDPに占める割合は、冒頭で述べたように、数字上は1.99%にすぎません。ミャンマーの各地を視察いたしますと、(マーケット)が多いのが目に付きます。そこでは日用品と共に、食料品がよく売られています。食料品は目方で量られて売られていますが、地方のマーケットでは、分銅代わりに液漏れした単一の乾電池が広く使われているのにはびっくりしました。乾電池は色々な製品に使われていますから、分銅よりも信頼性が高いのかも知れません。
一般のマーケットでは、定価というものがありませんから相対で値段を決めます。日本人がお土産として現地の民芸品などをマーケットで買う場合、価格交渉をしなければなりません。言いなりで買うと、かなり高い買物をしたことになります。また、店舗を構えているような店の場合、社会主義の時代があった関係もしくは正価販売励行のためか、全く価格交渉に応じないような店もまま見られます。この当たりの見極めが、土産品を買う場合など大切になります。
ヤンゴンの最大のマーケットは、先に述べたボージョー・アウンサン・マーケットです。そこでは日用品、衣料品、民芸品、骨董品、宝石などお土産にするようなものは、あらゆるものが揃っています。マーケットの右隣がFMIセンターで、日本の高級専門店ビルのような感じとなっています。衣料品店や宝飾品店が充実しています。マーケットの向かい側地区は商店街を形成しており、あらゆる物が売られています。本屋、電気屋、眼鏡屋、かばん屋など、同じ業種の店舗が集中的に集まっています。そのため、買い物するには大変便利です。旅行用のかばんなどを購入すると、大変安く買うことができます。観光やミャンマー語学習用の書籍なども、ホテル内の店で売られているよりも相当安く売られています。
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左の建物が ボージョー・アウンサン・マーケット、奥の建物がFMIセンター
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電化製品、カメラ、時計などは、日本で言う中型のショッピング・センターでも多く売られています。一時代前の日本のスーパー・マーケットのような感じです。昭和20年代後半の百貨店でしょうか。ヤンゴン市内には、何か所もショッピング・センターが見られるようになって来ました。
市街の中心部のスーレーパゴダ通りには免税店があり、酒類と共に、日本の醤油や味噌、そば・うどんなど日本食の食材が数多く売られています。そこで、観光案内の冊子を買ったことがあります。東京の神田で買う価格の半値位でした。
ダウンタウンを歩いていますと、食堂や喫茶店がよく目に付きます。最近、店内がとみに明るくなって来たように感じられます。また、以前見られなかった靴やベルトを売る店が目立つようになりました。ミャンマーでは、男も女も巻きスカート(ロンジー)を着用し、素足でゴム草履履きが通常のスタイルです。ズボンを履き、靴を履くということは、各家庭にエアコンが普及しつつある兆しとも考えられなくはありません。経済力が向上しなければ、エアコンを家庭で使うことはできません。
市内では、布製のシャンバッグではなく、皮革製のバッグを肩に下げている人が目立つようになって来ました。ファッション感覚がますます向上し、おしゃれな人が増えているようです。そのため、婦人服専門店が随所で見られるようになりました。数年後には、日本人女性観光客の観光スポットになるかも知れません。
現在ミャンマー最大の娯楽となっているのは映画で、映画館の建物が市街の各所に見られます。このあたりも、日本の昭和30年前後の光景とよく似ています。80円位払うと、比較的良い位置で見られるそうです。
ボージョー・マーケットの向かい側には、日本人の経営するトウキョウ・フライド・チキンの店があり、ヤンゴンの人たちの人気スポットとなっています。また、欧米感覚の明るい喫茶店も随所に見られるようになりました。
しかし、全体にまだ多くのヤンゴンの商店の店舗は間口が狭く、電力事情の関係もあり、店内が薄暗くなっています。店内が暗いと、クレンリネスに乏しい感じがします。したがって、日本人旅行客には汚らしく感じられ、入店し難い店舗となっています。外国旅行をしますと、日本の商業の仕方との比較ができ、参考になることが多いように思われます。
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9 ミャンマーの食べ物
ミャンマーの醤油は魚醤です。魚類を発酵させて作った醤油ですから、独特の臭味があります。この臭味と食用油をたっぷり使った料理が平気でしたら、ミャンマーで食べ物に困ることはありません。同国の料理は、中華料理とインド料理双方の影響が強く出ており、油で炒めたもの、豚やチキンのカレーなどが主力です。
主食はお米ですし、豆腐や納豆のある地方もあります。ただし、米はインディカ米がほとんどで、ジャポニカ米ではありませんから、ねばり気は余りありません。その代わり、チャーハンやお粥にすると大変おいしくいただけます。ちなみに、美味いと言うミャンマー語は「アヤダーシデー」(意味は、味がある)です。ご飯は「タミン」で、日本語と同じように食事と言う意味もあります。
ミャンマーでは多くの国民は川魚を食しますが、海の魚は余り食べないようです。ミャンマーの最大の民族であるバマー族はチベット高原を南下し、海岸へたどりついたのはそんなに昔のことではありません。ようやく何百年前のことにすぎません。このために、海の魚を食べる習慣がなかったからと言われています。
このような事情があるために、一部のタイの業者が漁獲権を獲得し、近海で魚を捕獲して冷凍にして日本に輸出しています。近海では海老も大量に捕れ、シンガポールと合弁のミャンマー政府の国策会社や民間の私企業が日本へ輸出しています。海老は、養殖ではなく天然物で、衛生管理を万全にして日本へ輸送していますが、刺身として食べるには、やや基準が甘いとの日本の専門家の指摘もあります。
国民の大半が戒律の厳しい上座部仏教を信仰する国ですから、酒類は余り飲まないようです。日本酒、ワイン、ウィスキーなどのような国を代表する酒はありません。仏教遺跡で有名な古都バガンの郊外で、さとう椰子の樹液を発酵させて作った蒸留酒を飲んだことがあります。日本の焼酎のような風味です。
ミャンマーには現在四つの銘柄のビールがあります。マンダレービール、ミャンマービール、ダゴンビールとスコールビールです。ダゴンビールとスコールビールは最近作られたビールで、レストランで注文しても余り出て来ません。ミャンマーで作られたビールは、レストランでは1瓶200円程度で飲むことができます。シンガポールのタイガービールやハイネケン、日本産のビール等もレストランのメニューにありますが、それらのビールは、日本で飲むのとほぼ同程度の料金が必要です。
ミャンマー製のビールは 余り苦くなく、お酒の好きでない人にとっては、日本のビールよりも飲み易いかもしれません。ダゴンビールの「ダゴン」はヤンゴンの旧名です。スコールビールはアルコール度が大変強いビールと聞きました。
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10 おわりに
現在のミャンマーの商業は、活気を呈していると言ってもいいでしょう。街中に物があふれ、各店舗は人でごった返しているような感じさえします。かつての日本の多くの商店街は、このような状況でした。シンガポール随一の繁華街オーチャード通りでは、日本の現在の商店街のように空店舗が見られるようになっています。周辺部が充実して来ているがために、空洞化現象を起こしているのです。
ヤンゴンの街も整備され、やがては超近代的な街並みに生まれ変わるものと思われま す。社会主義の国であった関係上国有地がほとんどですから、生活している人の居住権 はありますが、権利関係は日本ほど複雑ではありません。この利点をうまく生かすこと ができるならば、21世紀の遠くない時期に東南アジア屈指の大都会になるでしょう。た だし、無機質なコンクリートのジャングにはしたくありません。
同国の商業が活気を呈して来ているのは、競争原理が働いているからです。同業者が集積すればする程、競争原理は働きます。競争のない所には、発展と言う言葉はありません。多くの日本の街づくりは、競争回避、平等主義の国是?から、一般の人にとっては他地域の商店街との違いが感じられないものになっています。ある商店街が繁栄すると言うことは、競合する他の商店街の犠牲の上に成り立つことです。犠牲をより少なくする方法は、機能を分化させることです。
新しいヤンゴンの街づくりにおいても、各商店街機能を適切に配置することが大切かと考えられます。
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