ミャンマー旅行記 1
「誤解されている国」 ミャンマー入門
中小企業診断士 都築 治
第1部 紀行編
第1章 ゴールデン・トライアングル
■穏やかな三角地帯
1995年のとある日、タイ、ラオス、ミャンマーの国境が接するいわゆるゴールデン・トライアングル地帯を診断士の先達である鈴木基之氏、氏のご令嬢との3人で旅をした。当地にティーク材造りのショッピングセンターの完成、及びメコン川を走る豪華客船の運行が始まるとの報を耳にしたからである。
宿泊したのは、三角地点にあるデルタ・ゴールデントライアングル・リゾートホテルと言う名のホテルである。開業間もないホテルで、要所要所にティーク材が使われている。建物の中は薄暗く、老眼が進行し始めた身としては書き物や荷物の整理等がし辛い。
バンコクから遥か離れたこのホテルでのカードの使用状況がどのような具合か、試してみようと言うことになった。コーヒー1杯が1$である。3人分を鈴木氏がダイナースカードで支払う。わずか3$でも対応は良く、使い勝手は良好であった。
ホテルの前面道路には何軒かの土産物店がある。住まいと一緒になった掘っ建て小屋風の建物である。GOLDEN
TRIANGLE とプリントされたTシャツや、民芸品などが沢山売られている。
ホテルの前にはメコン川がゆったりと流れており、ボートでクルージングした。前夜真っ暗の中で食事した食堂の所からボートが出ているのである。明るい時に見ると、なかなか趣のある店である。メコン川で捕れるナマズの入ったスティーム・ボートを、前夜暗闇の中、食したのであった。
当地は地上に名高い黄金の三角地帯と言われているが、守備兵がいる訳でもなく、全くのどかな風景である。ボートは快調にメコン川を走る。肌に触れる風が気持ち好い。ミャンマー側の川岸にはホテルの建設が進んでいる。ラオス側の岸辺には魚を捕る人たちが散見される。ラオス側はジャングルの様相を呈している。ゆったりとした感覚と、大きな感動を覚えた。
クルージングの後で、今回の旅の目的であるショッピングセンターの見学に出かけた。ショッピングセンターは全館完成していたが、一部のフロアーは開店できないでいた。3階建てのティーク材の建物は豪華な感じがして見事であるが、お客が余りにも少ない。我々3人だけである。ここでは、ミャンマー製の漆製品の小物入れを購入した。価格は3$程度であったと記憶している。客船は待機していたが、まだ運行は始まっていなかった。中国側の発着点、景供の施設整備が遅れているからとのことであった。
■賑わう国境の町…メーサイ
ゴールデン・トライアングル地帯の三角点のある町チェンセーン観光後、ミャンマーとの国境通過が許されている国の町メーサイに向かった。チェンセーンはタイ族が初めて王朝を築いた土地である。途中田園地帯が広がるが、その光景は高床式の建物を除けば、私の子供の時の日本の田舎の感じとそっくりである。 メーサイはミャンマーのタチレッと国境を接しており、タイ北部の国境の町として広く知られている。ガイドブックには見る所はほとんど無いなどと記されているが、診断士の身としては大変魅力的な町であった。
ミャンマー側から持ち込まれた多くの品が売られていたし、中国系の商人も多く、日本語が通じるのにはびっくりした。こんな所にも日本人が何人もやって来ているのだなあと実感した。
メーサイの街長は400m程度で、道路の両側には土産物]
店等がぎっしりと並んでいる。土産物店の中には、アヘンの販売に使われていたと思われる天秤式のはかりや、古ぼけたビルマ様式の竪琴(サウンガウ)を売っている店がある。また、インド系の
ミャンマー人が、旧式のビルマ紙幣やコインを観光客に売り込もとして盛んに声を掛けてくる。翡翠の加工販売をやっている中国人の店もある。金融機関や、ホテルもある。
タイとミャンマーを隔てるのは川幅わずか 2・30mの川で、その上に橋が架かっており対岸がミャンマー国となる。ミャンマーに入国したかったがこの時はアヘン王として名高いクンサーが一帯で暴れており、国境のゲートは閉ざされていた。したがって、小高い山の上からタチレッの様子を眺めただけに終わってしまった。その後分かったこ
とは、それがクンサーとミャンマー国軍との最後の戦いであったことである。クンサーは中国の国民党の流れを引く人物で、長い間麻薬取引で同地帯に君臨していた。毛沢東との戦いに敗れた国民党の一部は、ミャンマーやラオス、タイの国境地帯に逃れ込んだ。
そんな関係もあり、クンサーはミャンマー国軍とも敵対関係にあったが、中国共産党や共産ゲリラとも敵対していた。一時は、台湾やアメリカから支援を受けていたこともあると言われている。クンサーは96年にミャンマー政府軍に帰順した。
メーサイからタイの古都チェンマイまで車で何時間もぶっ飛ばして行くことになるが、途中の小さな町々は、田園風景と同様に私の子供時代の町そのままの感じであった。アジアに親近感を抱いた。
2章 初来訪
■ミャンマー航空
最初に私がミャンマーに訪問したのは96年の12月であり、そんなに古い昔ではない。しかし、それ以来ミャンマーに病みつきになってしまい何度も訪れることとなった。最初のミャンマーへの旅はインド航空でバンコクに行き、ミャンマー航空に乗り換えてヤンゴン行くと言う日程であった。
バンコクで1泊し、夕刻の便でヤンゴンに向かう。昼間は自由行動で、バンコクの街を散策した。ヤンゴン行きの待合室には、日本の商社員らしき人、ミャンマー政府関係のVIP、富裕層のご婦人、身体に障害のある何人かの人などが待ち合わせている。日本人はスーツを着用しているから、言葉を聞かなくても直ぐに分かる。ここで感心したのは、VIPの人たちよりも身体に障害のある人たちが厚遇されていたことである。
ミャンマーを訪問する前に、自由党の西村真悟議員(元民社党)の議員秘書をされていた寺井融氏著の「ミャンマー百楽旅荘」
三一書房刊を書店で見つけて購入した。西村議員は元民社党系議員の中では最もタカ派的な方であり(民社党の党首であられた故西村栄一氏のご子息)、三一書房は左よりの印象が強く、その取り合わせが面白い。同著の中で、国営のミャンマー航空のことが述べられていて、寺井氏がいたくお気に入りの様が描かれている。こんな事情もあり、飛行機に乗る前から浮き浮きした気持ちと、僅かな緊張感をもった。何故なら、日本国内の報道ではミャンマーは人権弾圧の国で、常に国民と軍事政権とがいがみ合っており、物騒な国と聞いていたからである。
国際便としては飛行機は小さい。96年の11月18日からミャンマーは観光年を迎えた。そんな関係もあり、ステューワデスは非常に親切であった。今回の旅も前記の鈴木氏と二人で行ったのであるが、我々が日本人であると分かると、色々話し掛けてくれた。鈴木氏は全くといって言いほど英語ができないから、すこしは話せる私が対応することになる。1時間と少しばかりの機上ではあったが、和やかなもてなしにすっかりと良い気分になった。
■ヤンゴン到着
ミンガラドン(ヤンゴン)空港は非常に小さい。飛行機から降りるとムッとする熱気が伝わって来る。空港内は暗い。きたない、独特の匂いがするバスが乗客を迎える。ほんの一瞬の車中で、イミグレーションのある建物に到着する。タイのドン・ムアン空港やシンガポールのチャンギ空港を見慣れている身としては、異常に小さい建物にびっくりする。
入国審査は簡単に済む。すると、直ちに右手の方へ行けと言う。強制両替のカウンターである。300$をと交換する。この国では、一般の旅行客はUS300$を現地の兌換券と両替しなければならない。外貨不足を補わなければならないからである。
両替後、しばらくするとベルトコンベアに乗って預けて置いたバッグが出てくる。税関の審査もしごく簡単である。簡単な1枚の書類を渡すだけでパスする。いよいよミャンマーに入国である。入国客を待つ男の人たちの服装が何か異様である。全員がスカートをはいている。巻きスカート状のものはロンジーと言い、この国の民族衣装である。女性のみでなく、ほとんど全員の男性が巻きスカートを着用している。
旅行社のガイドが小さな看板を掲げて出口で迎えてくれる。確認が終わると、ロンジーを着用した男が旅行バッグを持って行ってしまう。ポーターである。お金を稼ぐために、多くのポーターが空港の構内出口にいる。ワンボックスのワゴン車に乗り込む。ガイドが、兌換券を現地通貨に両替せよと言う。兌換券50$をチャットに両替した。当時の交換レートは、1$が130K(チャット)程であった。1$は百円程度である。
ヤンゴンに着いた当日は、民主派と言われる学生たちが騒いでいた時でもあった。ヤンゴン大学や、その近くのアウンサンスーチー邸へ向かう道路のあちこちにバリケードが築かれ、所々に銃を持った警官が配備されている。したがって、少しばかり大回りしてホテルに到着する。
途中、商店がまだ何店か店を開いていたが、多くの店は店頭と店内に裸電球が2つあるだけで、店内は薄暗い。商品の良否を識別することは難しいように私には思えた。もっとも、この国の現状では商品を選別する以前の段階で、品物がなんとか手に入ることができればそれで良いのかも知れない。ホテルは、ミャンマー放送局に程近いリバティーという名のホテルである。その後の旅行で、このホテルの前は何度も車で通ることとなった。ホテル内は静かで、穏やかで日本国内で言われているような印象とは違う感じを受ける。ヤンゴンの市街地図を1弗で購入した。部屋の中はきれいになっており問題はないが、風呂のお湯が十分出てこないことには少々まいった。電力事情が悪く、給湯にまで行き渡らないからである。
|