親日とバマー国軍の反乱 関東学院大学講師 1 バマーを属国にした日本軍 第二次世界大戦の末期、バマー国軍は同盟国日本軍に反旗を翻した。日本の統治期間の間、日本の兵士の多くが当時のバマーの国民に対して相当に卑劣な行いをした。正義の味方のはずの日本軍が、とんでもない食わせ者であったのである。さらにバマー独立の約束を反故にし、実質的に、日本がイギリスに代わってバマーを領土化した。その結果、バマー国民に反日感情が高まった。要約すると、こんなところが、バマー国軍が日本軍に反旗を翻した原因とされ、定説となっているようである。 しかし、私はたびたびミャンマーを訪問するうちに、どうも実状は少し違うのではないかと考えざるを得ないようになった。本当にバマー国民の多くが日本に耐え難い程の悪感情を抱き、そのために反旗を翻したのであろうか。 2 英緬戦争 バマーは久しくイギリスの属国であった。誇り高いバマー国民の多数が、英国の分割統治により小作人に成り下がっていた。官吏や軍人はイギリス人に続いてカイン(カレン)族、カチン族、チン族などの少数民族が羽振りを利かしていたし、実業界では、イギリスが連れてきたインド人や中国人が国内を闊歩していた。 バマーが最初にイギリスと戦って破れたのは1826年で、二度目は1856年、三度目は1885年のことであった。イギリスのバマーに対する仕打ちは過酷で、バマー最後の王様であったティボー王はインドに追放され、王子らは処刑、王女らはイギリス軍の兵卒の娼婦にされた。現在、インド最下層のカーストの家系に、バマー王朝の末裔が何人か見られるとのことである。彼女らは、当然ミャンマー語をしゃべることはできない。 バマー国内の山岳地帯に住む少数民族の多くは精霊を信仰し、仏教徒やイスラム教徒などを改宗させる場合と比べると、宣教師によって容易にキリスト教徒に改宗することができた。イギリス側としても、同じキリスト教徒の方が仏教徒よりも扱いやすかった。そのために、バマー国内では改宗させたカイン、カチン、チン族など少数民族の人たちを盛んに登用した。 また、インド人や中国人を多数移住させ、バマー国内の開発に当たらせた。その結果、主としてインド人は金貸し業者、地主などとして中間層を形成し、中国人は商人として中間層を形成するようになった。そのために、多くのバマー人は社会の下層を形成する事を余儀なくされた。 3 日露戦争と高まる反英意識 このような状態が長く続きバマー国内で無力感が蔓延している中で、一条の光明を与えたのが日本の対ロシア勝利である。日露戦争は1905年の出来事であり、私が生まれる37年前のことに過ぎない。 このことで私がギョッとしたのが、最近の若い人にとっての第二次世界大戦は、私にとっての日清・日露戦争と大差ないことである。私は日清・日露戦争についての何らの知識を持ち合わせていないし、明治42年すなわち1909年生まれだった両親からも、そのことについては何も聞かされていない。昨今、諸外国から大東亜戦争の賠償を日本国民に対してしつこく働き掛ける動きがあることは、腑に落ちないことである。何か意図的なものが、背後にあるように感じない訳にはいかない。 いずれにせよ、日露戦争の日本勝利はアジア諸国に勇気を与えることになった。当時のアジア諸国は、ヨーロッパ人には敵いっこなく、日本が大国ロシアに勝つなどとは夢想だにもしなかった。日本の勝利は、アジアの人たちに希望を与えることとなった。このような中で、バマー国内では、ウ・オッタマを始め日本に熱い視線を注ぐ人が現れた。オッタマには「日本国伝記」1914刊と言う著書があるそうである。 しかし、相変わらずイギリスの狼藉は続いた。当時、バマー国民の心情をないがしろにしていたのは、パゴダや寺院など聖なる場所に欧米人が土足のまま立ち入ることであった。バマー人はそのような行為を耐え難い侮辱とみなした。1917年には、青年仏教徒連盟がヨーロッパ人専用客車の廃止、土足でのパゴダ参詣禁止などを要求した。1920年には、ヤンゴン大学で最初のストライキが起きた。 このようにしてバマー独立運動が高まる中で、サヤー・サンによる農民反乱があった。1930年の暮れのことである。サヤー・サンは翌31年8月に捕らえられ、32年4月までに反乱は鎮圧された。サヤー・サンの弁護に当たったのが有名なバー・モウである。 36年には、ヤンゴン大学の学生によるストライキが起き、中心人物には後に首相になったウ・ヌーや、アウンサンらがいた。38年には油田労働者によるストライキが起き、反英運動はいやが上にも高まって行くことになった。これらの鎮圧に当たったのが、イギリスに登用されたカイン族ら少数民族の警官や兵士である。銃口を突きつけられたバマー人にとっては、不愉快極まりないことであった。警官の発砲により、何人かが死亡した。 4 アウンサンの密航 バー・モウは言っている。「ビルマにいるわれわれにとっては英帝国主義こそ、現実で明白な敵であり、他の脅威はずっと遠くに見える影のようなものに過ぎなかった。」(「ビルマの夜明け」横堀洋一訳、太陽出版)。このような状況下、バマー国民の日本に対する期待はいやが上にも高まっていった。1939年には、バマーと日本との接触が秘密裏に行われるようになっていた。日本側も、中国抗日軍の支援に使われているバマー・ルート遮断の必要性を感じていた。バマー・ルートはイラワジ(エーヤワディー)川を遡上し、マンダレーからラショーを通り重慶に至るルートで、後には、ミートキーナ(ミッチーナーの誤読、現カチン州の州都)やバモー、ナムカンなどの要所を通るレド公路が開通した。 1940年8月14日、アウンサンら二人の若者が中国人密航者を装い、ノルウェーの貨物船ハイリー号でバマーを後にした。時に、アウンサンは25歳であった。 アウンサンらが中国に行こうとしていたか、日本に行くことを考えていたかは、研究者によって見解が分かれるところである。定説では、アウンサンらは中国共産党と連絡を取って、武器の援助を依頼しようとしてアモイに潜伏したが、これを悟った陸軍の諜報担当の鈴木敬司大佐が、当地で二人を捕らえさせ東京へ連行したものとされている。この見解に対しては、私はいささか疑問を感じる。アウンサンは容共的で(39年にはバマー共産党の書記長になっている)、中国共産党に親近感を感じていたかもしれないが、当時のバマーや中国の状況から判断すると、疑問を感じない訳にはいかない。 当時中国と日本は抗戦状態にあり、中国が日本と戦うのを助けていたのがイギリスである。イギリスと戦おうとするバマー人を、中国側がはたして助けようとするだろうか。アウンサンはそんな理屈が分からない人間ではないであろう。当時のバマー国民にとってはは、イギリスから独立する事が最大の命題であり、それ以上でもそれ以下でもなかったはずである。 5 南機関と30人志士 1941年12月8日太平洋戦争開戦とともに、状況は慌ただしくなった。南機関と30人志士はバンコクに渡り、バマー独立義勇軍の新兵募集を行った。義勇軍は最初200名を数えるに過ぎなかったが、日本軍とともにバマーに入るや参加者は激増し、42年3月のヤンゴン侵攻時には約3万人となった。 6 敗戦続く日本軍 42年6月には日本はミッドウェイ海戦惨敗、12月には連合軍のラカイン(ミャンマーの西南部、ベンガル湾に面する)方面の反抗が始まり、南太平洋ではガダルカナル島攻防戦に日本軍敗北など、戦局は著しく日本側に不利になってきた。不利な戦局を打開し、バマー人の戦争協力を得る必要のため、43年1月東条英機はバマーに独立の許可を与えた。そのために、同年8月1日バマーは世界に独立を宣言することができた。 バー・モウが国家主席となり、アウンサンは国防大臣、ネーウィンは国民軍の司令官になった。現在、この政権は日本の傀儡政府にすぎなかったと言うのが定説になっている。しかし、不利な戦局の中で真の独立を与え得るものだろうか。識者は、見せかけの独立を与えたのみであったから、バマー国民の反発がさらに高まったと言う。 当時、日本の兵隊がバマー人に嫌われていたことは、やたらにビンタを張ること、人前で立ち小便をする事などであった。日本国内同様、バマーでも憲兵はことのほか評判が悪かった。ビンタを張ることは、バマーの人にとってはこの上ない侮辱であった。バマー人には、人前で立ち小便をする習慣はない。 この間にも、戦局はますます日本に不利に展開した。アウンサンらは、このまま日本軍と一緒に戦っていては、真の独立は及びつかないと考えていたに違いない。 44年にはインパール作戦、フーコンの戦いなど、必死の戦いもむなしく日本軍はことごとく敗北し、転戦(実際は敗走)が続いた。この時の何冊かの戦記を読むと、日本軍がいかに悲惨な状態に置かれていたかが理解できる。バマー国民のためなどと言う余裕は全くなかったはずである。日本軍の敗戦は、疑う余地のないものになった。イギリス軍の諜報機関とすでに連絡を取り合っていたアウンサンは、これ以上日本側に付いていれば、自分たちの立場が危うくなるのを感知していた。当時の日本軍の参謀は回想している。「かつて第33軍の田中情報主任参謀が『オンサン(アウンサンのこと)国防大臣は梟雄の相があり、油断のならぬ人物であるから気をつけた方がよい』と、言われたことがある。」(野口省己「回想ビルマ作戦」光人社)。 7 抗日反乱 アウンサンらは44年8月、抗日地下組織「反ファッシスト人民自由連盟」通称パサパラを発足させた。パサパラには地下共産党組織も関与していた。45年3月初旬には、秘密幹部会を開き抗日一斉蜂起を決定した。同年3月17日午前10時、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダでイギリス軍を迎え撃つべく、バマー国民軍の出陣式が行われた。出陣式の後アウンサンはただちに姿をくらまし、10日後の同月27日夜、全部隊に命令を発して日本軍に反旗を翻した。 時の連合軍東南アジア方面軍の最高司令官は、マウントバッテン卿であった。マウントバッテンは作戦の犠牲をより少なくするには、アウンサンらを味方に付けた方がよいと考えていた。彼はアウンサンらにお墨付きを与え、通達はイギリス本土にも送られた。バマー国民軍に続いて、共産党ゲリラや農民ゲリラも蜂起したが、その参加勢力は根本敬氏の研究では国軍将兵が9,220人、同じく農民ゲリラは1千5百人〜2千人規模であったらしい(現代アジアの肖像13、根本敬「アウン・サン−封印された独立ビルマの夢」岩波書店)。 一部では激しく日本軍との戦闘が行われた。しかし、全土レベルのものではなかった。蜂起は国内全域のものではなく、多くの国民は国軍が反旗を翻したことを知らなかったし、抗日反乱の状況が飲み込めなかった。また、国軍の兵士を逃亡兵や強盗団と見なす者も少なからずいたとのことである。これについては、ルイ・アレンも述べている。「リンドップがランスに伝えるところによれば、ビルマ国軍は多くの地域で強盗を働いており、法と秩序への重大な脅威となっている。良民たちは日本軍よりも悪いと言い、イギリス軍がなぜ彼らを認めているのか分からないというのである。」(「ビルマ遠い戦場」平久保・永沢・小城訳、原書房)。また、30人志士の中には、お世話になった日本に対して裏切り行為になるからと、悩んだすえ自殺を図った者もいたほどである。 これらのことから、私はバマー国民が日本軍に対して著しく悪感情を抱き、その上独立の約束を守らなかったことが、国軍が反旗を翻した主原因であると言う見解には理解ができない。敗走する日本の兵士に優しく接した多くのバマー人がいたという事実は、かろうじて生きながらえた旧軍人のうち、多くの方が述べられている通りである。 8 アウンサン暗殺される マウントバッテン卿がアウンサンらにお墨付きを与えた結果、連合軍はアウンサンを戦犯にすることができなかった。イギリス軍の将校のうち、アウンサンに反感を抱いていた者が何人もいた。終戦後間もない47年7月19日、真の独立を見ないうちに、アウンサンは凶弾に倒れ暗殺されてしまった。アウンサン32歳と5か月であった。アウンサン暗殺については、親日家のウ・ソオ(イギリスの統治時代、三代目の首相になつたことがある)が自分の野心のために暗殺したとされているが、これも変な話である。暗殺を企てれば、いずれはばれることである。首相にもなった男が、自分が再び国家主席になりたいと言う単純な野望?で暗殺を企てるであろうか。 「ミャンマーの国家的英雄であるアウン・サン将軍とその閣僚らは、1947年に植民地政府の共謀のもとに暗殺された。このことはミャンマーの歴史の中で最もダメージ的な出来事であった。」と、ミャンマーの防衛省戦略研究所の小冊子では、アウンサンの暗殺について簡明に記述している。明らかにイギリスが関与していたとの認識である。ウ・ソオが関わっていたとすれば、うまくイギリスに操られたのであろう。 9 神格化されたアウンサン将軍 戦後のバマー政府、主としてネーウイン軍事政権は自分たちの立場を正統化するためには、アウンサンを絶対化する必要があった。独立の英雄で、神さまでもある、アウンサン将軍がつくった軍隊を引き継いだ国軍の政権であるから、正統性があると言う論理の展開である。 神格化されたアウンサンに、いささかの問題点があってはならない。幸いに、アウンサンはこの世にいない。それ故に、あらゆる方法でもってアウンサンを神聖化した。神聖化されたアウンサンにやましいことがあってはならなかった。そのために、日本軍への反旗は日本軍の行状の悪さ、バマー独立の約束を反故にし、イギリスに代わってバマーを日本領土にしたなどの所為にした。実際は、敗軍にいつまでも連れ添っていては自分たちの立場が悪くなり、真の独立に及ばないと感じていたからに他ならない。また、イギリス軍に自分たちの反日の姿勢を認めさせる必要性があった。 このことについては、反旗を翻すために行方をくらましたアウンサンを追跡した高橋八郎大尉(ビルマ軍司令部軍事顧問)が、プルーム(ピィ)の南方シュエタダウンでようやくアウンサンに追いつき、その時の問答をした内容が立証している。 「高橋 今後あなたはどうするつもりか。 オンサン これからも引き続き日本と行動を共にすることはビルマの滅亡を意味する。 高橋 英国とはどんな交渉をされているのか。 オンサン 理想とするところはビルマの完全独立である。それが不可能ならば自治領だ。この線で交渉 中である。またもし、以上の二つとも承認されないときは飽くまでも英国と戦うつもりである。 ビルマの独立を主張するには、少なくともここで反乱の姿勢を示し、英国に具体的な証を立て ねばならぬ。だから、反乱を起こしたのである。」(防衛庁防衛研究所戦史部「シッタン・明号 作戦」浅雲新聞社) 当時の多数のバマー人の気持ちは、独立を勝ち取ることが最大の願いでもあった。従って、アウンサンらが間違った選択をしたという訳ではない。このことについては、アウンサンらの決断が信義違反でけしからん、と悪く言うことはいささかもできない。必然的な行動であったと思う。 私が問題にするのは、あらゆる責任を戦前・戦時中の日本軍国主義の所為に帰す一部文化人の論調である。正邪を判断することは難しい。キリストは言っている。「人をさばくな。自分がさばかれないためである。あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたが量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。」国家間の場合、個人を量るよりもはるかに難しい。 最近のミャンマー政権は、今まで使っていたファッシスト日本という表現から、日本と言う言葉を削除したとも聞き及んでいる。また、アウンサン将軍を神格化した結果、アウンサンスーチーの幻惑に悩まされることになったのは、歴史の皮肉でもある。 |
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