「最近のミャンマー情勢」 2005
NPO The
Consultsant's for Myanmar
最高顧問 山 口 洋 一
<キン・ニュン首相退任劇の実相>
ニ〇〇四年一〇月に起きたキン・ニュン首相退任劇は、政策路線の対立というよりは、権力闘争と捉えることができる。腐敗・汚職云々というのは政変劇を理由づけるための口実に過ぎず、この点については軍政の指導部連中は誰しも「同じ穴の狢」といえる。むしろキン・ニュン首相は率先して汚職退治に取り組んできたのである。
キン・ニュン首相は自己の決断で、ミャンマーにとり最適・最善と判断されるやり方で、国造りを積極的に推進してきた。ただその際、必ずしもタン・シュエ議長の十分な了解を事前にとりつけることなく、自分の責任で判断を下すことがあった。首相に就任してからは、特にその傾向が見られ、タン・シュエ議長にとっては、自己の立場をゆるがす脅威になり得るとの不安を感じさせる事態となっていた。他方、マウン・エー副議長等、キン・ニュン首相以外の指導者たちは、タン・シュエ議長の意向通りに動く者ばかりであった。
マウン・エー副議長はタン・シュエ議長が抜擢した人物であり、トゥラ・シュエ・マン大将(国防省陸海空軍作戦調整官)、ソー・ウィン新首相、テイン・セイン新第一書記等新指導部の顔ぶれはいずれもタン・シュエ議長の完全なイエス・マンばかりである。こうした連中が一緒になって、キン・ニュン一派を蹴落としたというのが、一〇月政変となったものと思われる。従って、今やタン・シュエ議長は自己の地位を安泰にし、一段と独裁者的存在となっている。タン・シュエ議長が少しでも難色を示した案件は絶対に日の目を見ることなしという状況はますますひどくなっており、誰一人タン・シュエ議長を説得して考えを変えさせようとする勇気のある者はもはやいなくなってしまった。
役人は誰しも自分が責任をとらされることを恐れて、決定を上にあげ、課長は局長に、局長は大臣にとお伺いを立てるので、最終的にはすべての決裁がタン・シュエ議長まで上がることとなってしまい、行政事務の渋滞と非能率を招いている。
タン・シュエ議長が独裁者として君臨し、「出る釘は打つ」方式で、少しでも脅威に映る者は切り捨てるというやり方は、あたかもネ・ウィン時代の再現といった印象を与える。ネ・ウィンはまさにこの手法方で権力を欲しいままにしてきた人物であり、有能で、ネ・ウィンの後継者とまで噂されたティン・ウー国防大臣(現在NLD副議長)が突如ばっさり首にされたのなどはその一例である。
軍人の世界では、常に上下関係が「命令―服従」の論理によって支配される。戦場においては、この関係が犯すべからざる絶対的な規律となる。しかし政治の世界では、状況に応じて、一番適切な政策が探求されねばならず、そのための意思決定のプロセスは国家体制のメカニズムとして決められており、専制的な独裁体制でない限り、下の者の意見が頭から排除されてしまうことはないのが普通である。ところがミャンマーでは、一九八八年に発足した「国家法秩序回復評議会(SLORC)」体制及びそれが一九九七年に改編されて今日に至っている「国家平和発展評議会(SPDC)」体制、いずれも一応合議制の最高意志決定機関が国の舵取りを担うこととなっているが、そこでは形式的には合議体でありながら、軍人さんの「命令―服従」の論理が色濃く支配しているように見受けられる。そしてキン・ニュン首相が排除されてしまった今、ますますこの論理が絶対視されるようになっており、タン・シュエ議長の独裁体制が一段と足元を磐石にしたとの感を深くする。
<基本政策路線は不変>
こうして見ると、昨年一〇月の政変は明らかに権力闘争であり、路線闘争(つまり強硬派による穏健派排除)という意味合いはさほど強くない。現に、七段階の民主化ロードマップの方針も再確認されているし、国民会議も開かれており、基本政策に大きな変化は見られない。ただキン・ニュン首相の個人的な信望と力量で進めてきた個々の政策には滞りが見られ、少数民族との和平交渉で最後に残されたカレン民族同盟(KNU)との交渉は、先方がキン・ニュン首相に寄せる信頼感が重要な鍵となっていただけに、足踏み状態に陥っているようである。又、従来キン・ニュン首相主導で進められてきたアウン・サン・スー・チー女史との接触・歩み寄りの模索も、当面見るべき進展は期待薄となってしまった。なにせタン・シュエ議長やマウン・エー副議長は大のスー・チー女史嫌いなのである。
このように、ミャンマー情勢の本質は、タン・シュエ議長の独裁色が強まったという点以外は、なにも変わっていない。一九八八年に現在の体制が誕生して以来、軍政の性格も、その発想も、基本的政策路線も、本質的には変化なしと言っても過言ではない。
<街の様子と人々の反応>
私がこの春ヤンゴンを訪問した時の印象でも、町は至って平静であり、キン・ニュン首相退任劇にともなう混乱は全く感じさせない落ち着きをとり戻していた。もっとも退任劇直後の一ヶ月間位は多少緊迫した情勢となり、一般市民の日常生活にも幾分緊張した雰囲気が感じられたとのことであった。スー・チー女史宅のあるユニバーシティー・アブニューは長らく交通止めになっていたが、これが解除され、自由に通れるようになっていた。
ヤンゴン市内やドライブで訪れた近郊の様子は、道路網が改良されたり、信号機が増えたり、新たな市街地が整備されたり、インフラが徐々に整ってきている様子が窺われ、総体的に経済は、スロー・テンポながら、着実に良い方向に向かっているように見受けられた。ヤンゴンからモン州のモーラミャイン(モールメン)に行くにはシッタン河に橋がなかったので、フェリーによる渡河に時間がかかっていたが、ここにも鉄道橋、自動車道、歩道を兼ね備えた長さ二、三五〇メートルの橋が本年二月に完成し、国内の交通・運輸事情が大幅に改善した模様であった。ヤンゴン国際空港でも、ターミナルの増設や滑走路延長(ジャンボ・ジェット機が離着陸できるようになる)の工事が完成間近であった。市内の喫茶店なども、大きなガラスの仕切り越しに通りを眺め渡せる、冷房のきいた、しゃれた店が増えていた。他方、かつてヤンゴンではほとんど見られなかった乞食が散見されるようになったのは、貧富の差が拡大している証左かと思われた。
昨年一〇月に政変が起きた時、有識者の間ではキン・ニュン首相への期待が大きかっただけに、同首相退任を惜しむ声が多かったが、一番心配されたのは国内秩序の混乱であり、その後、政治・治安情勢がさして不安定化することもなく、落ち着きをとり戻したので、人々は一応安堵している。
国民はなによりも安定を願っている。ことに企業家は安定的な見通しが得られなければ、うっかりと事業に手を出すこともできない。今回の政変でも、キン・ニュン首相に近かった者は逮捕・監禁、自宅軟禁、財産没収の憂き目にあっており、そこまで行かなくとも、キン・ニュン首相のお声掛かりによるプロジェクトについては中止、中断、規模縮小、契約取り消しが生じており、手痛い打撃を蒙っている。
この国では、企業家が事業を成功させるには、権力者とうまく結びつかねばならないが、現状では何時また上層部の権力闘争で、どんな政変が起きるかわからないという不安感を誰しも抱き、実業家は戦々恐々としている。経済界で生きのびていくには、政変で致命的な打撃を受けないよう、保険をかけねばならず、例えば著名な実業家K氏はこれまでキン・ニュン首相に密着して成功を収めてきたが、他方、娘をマウン・エー副議長の息子と結婚させているので、今でも安泰といった有り様である。
もっとも国民一般の心情としては、政権上層部の動きがどうなろうと、あまり関心なく、そんなことよりも、日々の生活を平穏・安全に営むことができるか、お米があまり値上がりせずにちゃんと手に入るか、停電がひどくならないか、ガソリンが買えるかといったことの方が大切というのが本音で、自分たちの暮らしに直結した事柄に注意が向けられている。
最後に、ミャンマーのある友人が語ってくれたスー・チー女史をめぐるエピソードをひとつ紹介して本稿を締めくくりたい。自宅軟禁となる前の頃、ある時女史がヤンゴン近郊の村に遊説に出かけていった。村にはさしたる娯楽もないので、老いも若きも見物に集まった。女史は滔々と演説をぶち上げたあと、一同を見回して、「何でも訊きたいことがあったらどうぞ」と質問を誘った。控えめなミャンッマー人、ことに素朴な村人たちのこと、われ先にと質問をする者は誰もいない。やがて一人の老人が、おずおずと手を上げ、「われわれは長年イギリスの過酷な植民地支配に呻吟させられてきたが、あの偉大な指導者アウン・サン将軍が現われ、彼のおかげでようやく独立を勝ち取った。その娘であるあなたはなぜわれわれを痛めつけてきたイギリス人と結婚したのですか」と遠慮がちに訊ねた。これに対し、女史は答えて曰く、「それは私がたまたまイギリスにいたからそうなったまでで、もしミャンマーにいたならば、あなたと結婚していたかも知れませんね。」訊ねた老人にしてみれば、「過去の怨恨は友情に変えねばならない」とか「世界の平和は異なる国の人々が相互に理解し合い、慈しみ合って実現するもの」といった高踏的な答えを期待し、村人たちもそれを待ち受けていたのに、この幼稚園児のような木で鼻をくくった答えには一同がっかりしてしまった。
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